今日は、オザビエル(私)が、
心理学博士
小林 正観(こばやし せいかん)さんの
『すべてを味方 すべてが味方』から学んだ
実践していきたい
「幸齢者mind」をお届けします。
目次
1 安岡正篤と無の味
安岡正篤という方は、日本における陽明学の権威で、
終戦の詔書の草案に加筆するなど政財界に強い影響力を持ち、
「平成」の元号を考案したともいわれています。
安岡さんによれば、茶を入れるときは、
なるべくいいお茶を選び、
それをほどよい湯加減で煎じることが大事だということはもちろん、
まず、第一煎で茶の中に含まれている糖分、すなわち甘味を出し、
第二煎で苦味を味わい、
そうして最後の第三煎で茶の渋味を味わうことだということです。
この甘味、苦味、渋味を人間にあてはめると、
人間いい歳をしていつまでも甘いだけではダメで、
苦味がわかり、更に渋味が出てこないといけない。
それを知るのが本当の茶道というものだ、
と述べています。
安岡さんのすごいところはここからです。
「しかし甘いとか、苦い、渋いと言っている間は
まだまだ本物ではないのでありまして、
これをもっとつきつめると、
もう甘い、苦い、渋いというようなものではなくなって、
無の味になります。
そういうことを詳しく説いておるのが
専ら老荘(老子・荘子)でありまして、
老荘ではこの味の至れるものを無味と申しております。
それではこの無味の味をもった現実に存するものは何かというと、
いうまでもなく水であります。
これを『淡』と申します。
淡は火にかけて極めるという意味であります。
甘いとも苦いとも何ともいえない味が
無の味であり、淡であります。
論語の『君子の交わりは淡として水の如し』というのは、
単なる水臭いつき合いというような意味ではないのであります。
(中略)
そこで、人間がお互いに人生の至れる味をしみじみと話し合う、
というのが茶話の本義であります。
夫婦が長い間一緒に苦労をして、
漸く人生の醍醐味、世の中のことや人間の至極の話を
しんみりとし合えるわけであります」
「淡々と生きる」という言葉がありますが、
淡という語には、甘味、苦味、渋味を超えた
無味の境地という意味があったというわけです。
老夫婦が日なたぼっこをしながら、
人生をふり返り、一服の茶を飲む。
何ておだやかな風景でしょう。
「淡」の境地を味わえる「茶飲み友だち」を目指したいものです。
2 貝原益軒の養生三訓
江戸時代前期の儒学者で、医学にも通じていた
貝原益軒という人が『養生訓』というものを書いていますが、
この中に養生三訓というのがあります。
ひとつ目、身養生。
ふたつ目、心養生。
そして三つ目の養生が何かを知ったときに、
私はいい意味でショックを受けました。
「貝原益軒の目のつけどころは、こういうところだったのか……」と。
三つ目の養生は〈家〉です。家養生。
この三つが揃わないと、健康にはならない。
体だけ丈夫であっても、心だけ丈夫であっても……
三つとも全部健康でないと体全体に影響が出るそうです。
どこかがガタガタすると、
必ず他のふたつもガタガタする……。
身養生と心養生は「心身ともに」という言い方をしますから、
これはわかります。
ところが貝原益軒はもうひとつ、〈家養生〉
「家の中がゴタゴタすると、その人間は絶対に健康にはならない」
と言っているのです。
つまり、いつもこの三つを同時に、
穏やかにおさめていけば
健康であるけれども、
ひとつでも暴れ馬がいると
平穏になることはない、
健康になることはない、
ということを言っています。
3 今日の金言 小林 正観さん
何も起こらない日常生活こそ、
幸せそのものであることに気がついた人は、
いつまでも〈幸せの海〉の中に
どっぷりとつかっていられます。
人によろこばれたときの〈よろこび〉は、
自分がひとりよろこぶ〈よろこび〉とは
比べられないほどの大きさです。
オザビエル(私)も、
人生の醍醐味や人間の至極を学ぶことができました。
心身の健康と長寿を保つ養生三訓を
実践していきたいと思います。
出典 『すべてを味方 すべてが味方』 小林 正観(こばやし せいかん) 発行所 三笠書房 画像はヤフー検索から