たとえば、「自分が死んだら葬式のときに流してくれ」と、
参列者へのお礼の言葉や、好きな音楽を録音した人がいます。
そんなことをしても、あなた自身は当日の様子を聞くことができないのに
……、と言われて、彼は言いました。
「いやいや、このテープを作りながら、
当日のみんなの反応を想像すると、
楽しくてしょうがないんだ。
だから今から、どんないたずらを仕掛けてやろうかと、
頭をひねっているところさ。
俺はもう死んだから怖いものはない。
今まで口止めされていた秘密をこれからばらします。
なんて言ったら、思い当たること、やましいことのあるヤツは、
戦々恐々となるんじゃないかな。
いやいや、そんな人の悪いことはしないけどね」
といかにも楽しそうに残された日々を過ごしていたそうです。
そんな死期の迫った人のケースではなく、
ごく一般的にも生命保険に入ったり、遺産の配分を考えたりするのも、
言ってみれば自分の死んだ後、
自分で見たり、聞いたりできる世界の話ではありません。
しかし、その生命保険を受け取った遺族が、
悲しみの中でもせめてもの今後の経済的負担の軽減で、
ほっとする場面を「想像」できる意味で、
まさに「今」、自分の死後のことを感じ、
遺族と共有することができます。
やはり、自分の死んだ後のことは「知ったこっちゃない」では、
もったいないのです。
100年後のために山に木を植えている人は、
もちろんその木が育った状態を見ることはできません。
しかし、想像力さえあれば、100年後を思い描くことはできます。
その木が育って人々が喜ぶことを想像すると、
今が楽しくて仕方がないのです。