321 松下幸之助と運

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古きレトロな電球の写真

1 今日のパワーメンターと著書

今日は、オザビエル(私)が、

経営コンサルタント、投資家

本田健(ほんだ けん)さんの著書

強運の法則』から学んだ

一瞬で運がよくなる

パワーフレーズ」をお届けします。

2 パナソニックグループ創業者

パナソニック(旧松下電器産業)グループ創業者、PHP研究所創設者。

 

1894年(明治27年)、和歌山県に生まれる。

 

9歳で単身大阪に出、火鉢店、自転車店に奉公ののち、大阪電灯(現関西電力)に勤務。

 

1918年(大正7年)、23歳で松下電気器具製作所を創業。

(昭和10年、株式会社組織に改め、松下電器産業に改称)

 

1946年(昭和21年)には「栄によって和と福を」のスローガンを掲げてPHP研究所を創設。

Peace and Happiness through Prosperity = PHP

 

1979年(昭和54年)21世紀を担う指導者の育成を目的に、松下政経塾を設立。

 

1989年(平成元年)に94歳で没。

 

 

松下幸之助は、一代で世界的大企業パナソニック(旧松下電器産業)を作った日本を代表する経営者です。

 

企業のトップという一面だけでなく、思想家としても数々の提言を行って社会に多大な影響を及ぼすなど、いろんな分野で成功を収めました。

 

著書も多く、とくに随想集『道をひらく』は、

日本の戦後ベストセラー第2位の発行部数で、

累計部数はなんと520万部を超えるそうです。

3 松下幸之助の生まれ、少年時代

松下幸之助は、1894年(明治27年)に、8人兄弟の末っ子、

三男として和歌山県に生まれます。

松下家は、もともと小地主の資産家でした。

しかし、幸之助が4歳のとき、父・政楠まさくすが米相場に失敗して破産、

一転して貧しい生活を余儀なくされます。

 

幸之助は、5歳のときに次兄を亡くして以降、次姉、長兄も死を迎え、

父は幸之助が11歳のときに、母は18歳のときに亡くなり、

26歳までにほかの姉たちも含め家族9人すべてを病気で失い、

生涯孤独の身になっています。

 

9歳のときには、大阪ででっ奉公することになり、

小学校を中退して、ばち店に勤めることになりました。

しかし、その店は3か月で閉じることになったため、

五代自転車商会に奉公、

子どもがいなかった五代音吉夫妻に我が子のように可愛がってもらい、

家庭的な雰囲気の中で、商売のイロハを教わります。

 

1910年、路面電車を見て「これからは電気の時代がやってくる」と強く感じ、

幸之助は転職を決意します。

15歳のとき、大阪電灯という現在の関西電力の元になった会社の一つに、

内線係見習工として雇われます。

4 結婚、そして松下電器の創業へ

海外渡航時に必要なコンセント各種の写真

体の弱かった幸之助は、肺尖はいせんカタル(肺結核の初期)にかかって、

体調を崩しがちで、

3日働いては1日休むといった生活を送らなければなりませんでした。

将来に不安を覚えながらも、姉に勧められるまま、

顔もまともに見ないで、淡路島の船乗りの娘・むめのと結婚します。

 

その後、1918年、23歳で松下電気器具製作所を創業し、

試行さくの末に、アタッチメント・プラグや二股ソケットを考案。

よく売れて、会社は大きく成長しました。

ところが、1929年の世界恐慌の荒波が、日本を襲います。

売上は半減し、あっという間に在庫が山積みになりました。

リストラ必死のところを幸之助は、1人の首も切らずに、

みんなで危機を乗り切ります。

 

以後、業績を順調に伸ばしていきますが、

やがて、第二次世界大戦の始まりによって、

大きな時代のうねりに巻き込まれていきます。

5 終戦からPHP研究所、松下政経塾の設立まで

戦争末期には、軍の要請で造船会社と飛行機会社を設立することになり、

56隻の木造船と3機の飛行機を作ったところで終戦。

不運なことに、幸之助は、軍関係の仕事でかかったお金を、

一時的な約束で個人保証していたために、

大借金を背負うことになりました。

 

しかも、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から財閥ざいばつ家族の指定や、

公職追放の指定など7つの制限を受け、

経営者として仕事ができなくなります。

 

1948年には、松下電器は当時のお金で4億円の借金に苦しみ、

社員の給与の分割払いを余儀なくされます。

また翌年、多額の物品税を滞納せざるを得ない状況に陥り、

税金の滞納王」と報道されるなど、

人生で最も苦しい時期が続きます。

 

戦後すぐの1946年には、PHP研究所を創設します。

物心一如の繁栄をどう築くのか、どう生きるのかなど、

人間関係を深め、各地へ講演に出かけて、

PHPの趣旨や考え方を説いて回ったのもこの頃です。

 

1951年、初渡米、世界と日本の力の差を実感します。

1952年には、オランダのフィリップ社と技術提携を成立させ、

その後、大躍進を遂げます。

1961年、社長を退任し、会長に。

1964年の不況時には、全国の販売会社、代理店の社長を集めて行った、「熱海会談」を通じて販売体制の刷新を断行。

その後の劇的な業績回復につながりました。

 

1973年、78歳で、会長も退任して、相談役に就任。

社長退任の頃からは、

本当にやりたかったPHP研究所での活動に時間をかけ、

研究活動や著作の執筆に励みます。

1979年、私財70億円を投じて、84歳で松下政経塾を設立。

多数の政治家を輩出することになりました。

1989年、昭和が平成になった直後の4月27日、94歳で永眠。

これが、松下幸之助らんばんじょうの人生です。

 

松下幸之助は、ぐうの少年時代を過ごし、

どちらか言うと、運の悪い方だったでしょう。

しかし、そのぎゃっきょうにめげることなく、与えられた境遇を受け入れつつ、

自分の仕事に最善を尽くしていきます。

それが、を作り、まわりの人の応援を呼び込むことにつながります。

そして、晩年には、幸せで豊かな人生を実現することができました。

 オザビエルの願い

今日の学びは、

 

  • 松下幸之助さんは、ぐうの少年時代を過ごし、どちらか言うと、運の悪い方だった
  • そのぎゃっきょうにめげることなく、与えられた境遇を受け入れつつ、自分の仕事に最善を尽くした。
  • パナソニック(旧松下電器産業)グループ創業、PHP研究所創設、松下政経塾を設立。
  • 1989年(平成元年)に94歳で没。

波瀾万丈のサクセス・ストーリーに見えますが、

幸之助さんにとっては、「一歩一歩」、牛歩であっても進んでいった、

という思いのようです。

 

同じ日本人として、苦しい時期を乗り越えることができた精神力すばらしいと思います

経営の神様とはいかずとも、名人達人の域に近づきたいものです。

出典 『強運の法則』 本田 健(ほんだ けん) 発行所 PHP研究所 画像はヤフー検索から

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